ブログに戻る『恋スル信号機』 試し読み
------------------------------------------------ プロローグ 「さあ今日は家に帰ってライブだっ」 週末の夕方過ぎ。 いよいよ本格的に冷たくなってきた風が歩道の枯葉を寒々しく舞い上 がらせていた。 僕はマフラーを鼻まで上げ、コートのポケットに手を突っ込み、これ からの予定にうきうきしながらアパート前で信号待ちをしていた。 「しかし相変わらず遅いな……」 思わずそんなぼやきが出る。 僕の住んでいるアパート前にある歩行者用と車両用の二つの信号機。 今日はいつにもましてなかなか切り替わらない。どこか近くで事故で もあったのだろうか。 技術の進歩のおかげか最近の信号機は、交通量や事故などの情報など を元に、その付近の各信号機による交通制限、制御を行っているそうだ。 まったくもって凄い進化だ。 しかしこの自宅前の信号機は僕になんの恨みがあるのか、いつも必ず と言っていいほど決まって足止めされる。 思い返す限り一度もちょうどここに着いた時に青だったということが ない。しかも待ち時間もいつもそれなりに長い。 明らかに交通量の少ないであろう日、時間帯でもだ。 「おいおい今日ぐらいは勘弁してくれよ……。これから楽しみにしてた ライブを見に行くんだって……」 辺りはろくに車も走っていないというのに、信号はまったくもって変 わる気配がない。時間が無いからだろうか、いつもにも増してこんなち ょっとした時間でも長く感じる。 立ち止まっていると吹きすさぶ寒風が余計に{堪|こた}える。 「うう寒い……」 思わず身を縮めた拍子に足元に目が留まる。 あれ、靴紐がほどけている。 「おっと危ない危ない」 すぐさまいつの間にかほどけていた靴紐を結びなおし、顔を上げると ようやく信号が青に切り替わった。 一. VRコンサート 辺り全てに反響するように響く音楽にあわせ、見渡す限りのフロアに サイリウムの波が揺れる。 数万人規模で観客を収容できる巨大なドームで、今まさにとあるアイ ドルのコンサートライブが開催されていた。 ただしこのドームは現実にはどこにも存在しない。 なぜならここはVR技術で作られた仮想現実上にあるドームだからだ。 曲が終盤にさしかかり照明が観客席をゆっくりと舐めるように照らす。 白色のまばらに投げかけられた円形の照明に照らされた観客の顔は楽 しそうに、あるものは神妙な顔つきで、誰もがじっとステージ上をみつ め、スローテンポのバラード曲にあわせサイリウムや手を振っていた。 仮想現実上にあるドーム。 しかしここにいる人達は仮想現実世界にあわせ体こそ一時的な借り物 ではあるけれど、その中身までは決して映像やVRで作ったまがい物な んかじゃない。 僕と同じく現実のどこかにいる、どこかの誰かさん、だ。 彼ら、彼女らもまた僕と同じようにちゃんと現実のどこかにいて、こ の日の為にチケットを取り、現実のどこかの場所からHMD(ヘッドマ ウントディスプレイ)そして感覚器官を通してこのVR世界でのライブ を今まさにリアルタイムで体験、体感しているのだ。 ブログに戻る