◆羊 夜 世界◆



第一夜  教室

			
「ふあああぁああぁあ……」  ……眠い。  非常に、眠い。  まるで視界の淵が白くぼやけた感じに縁どられている様だ。  今少しでも考える事をやめたら、すぐに深い眠りの淵に落ちる自信がある。  滲み出た涙を拭う。  もし目の前に布団があったら、何の迷いもなく飛び込んでいるだろう。  というか白くて暖かくとにかくふわふわしたものがあったら俺は勢いよく飛び込んでいるだろう。  そう、白くて暖かくて、ふわふわしたものなら……。  いっそ羊の群れでも……。 「うわ、でっけぇ欠伸だなあ」  呆れ顔で友人……いや。悪友の敦史が言った。 「ん? なんだ敦史か」  それでくだらない考えから現実に引き戻される。 「おい敦史。お前授業中に何をふらふら……と、ってあれ」  そこまで言って気が付く。  辺りを見回すともう教室内はすでに閑散としていた。  残った数人ももう帰り支度をしている。  いつの間にか帰りのホームルームもとっくに終わっていたようだった。 「まだ寝ぼけてるのか。どうせまた夜更かししていつものネットのゲームでもやってたんだろ。 あれだけ文句言ってたくせにまだ辞めてなかったのか。まったく呆れたやつだ」  敦史が肩をすくめて言った。 「違う、ネットサーフィンだ。そんなにいつもゲームばっかりやってるわけないだろ」  俺は口をとがらせて反論した。 「どっちも同じ様なもんだろ! というか何やってるかまで分かるか! しっかしお前今日一日中 寝てたんじゃないのか」 「いや五分は聞いた。五分」  俺は五本の指を立てしたり顔で言う。 「休み時間より短いな……それ」  まあその五分も寝ぼけていただけだったが。 「というか最近お前寝すぎじゃないのか。いいか。学生の本分は勉強だぞ? お前にはそんな殊勝 な気持ちが微塵も感じられん。たぶんお前は全国の高校生の中でも屈指の駄目学生だな」  まさか敦史に説教される日が来るとは……。 「おいおいいきなり随分だな。お前だけには言われたくはないぞ。いや、眠いのにはちゃんと理由 はあるんだよ」  俺はろくに開きもしなかった教科書やらノートを無造作に鞄に突っ込みながら言った。 「理由ねえ……。どうせ大したもんじゃないだろ」 「いやちょっと前に良く眠れる音楽サイトを発見してさ。もうそれで最近は快眠どころの騒ぎじゃ ないな」  俺は少し得意げに言った。 「よく眠れる音楽サイト? なんじゃそら」  敦史が首を傾げる。 「まあサイトっていうか、最初は動画サイトのリンクから見つけたやつなんだけどな。よく分から んがなんでも睡眠導入音楽ってものらしい」 「睡眠導入音楽? なんか若干胡散臭いなあ」 「俺も最初はそう思ったさ。ところが効果はてき面。なぜか今はもう消えてるけどな」 「なんだよ。もう落とせないのか」 「ああもう駄目だな。なぜか動画も消えている。なんていうサイトだったっけかな……確かちょっ と前までそこのサイトから落とせたんだ」  そう言って俺は肩をすくめた。 「へえ、まるで興味ねえ」 「けっ、つまらん奴だ」  頭すっからかんの敦史はどうせ毎日快眠で高いびきだろう。  はは、こいつには関係ない話だったか。 「はいはいつまらん奴で結構。それよりも俺たちもとっとと帰ろうぜ」  敦史は相変わらず呆れ顔のまま鞄を肩にかけた。  まあ確かにもう落とせないものをあれこれ言ってもしょうがない。  ファイル自体は確保している訳だし。  ……と。  そういえば今日は帰りに用事があるんだった。 「ああそうだ。今日はCD見に行こうと思ってたんだ。付き合え。例のバンドの新譜が出たんだ」  俺はポンと手をたたく。 「それはよ言えや」  早速敦史が文句を言う。 「今朝言ったろ」 「そんなもん聞いてないわ! しかも“ああそうだ”って明らかに今思いついた感じだったろ!  それに今日は大事な用事があるんだ。明日にしろ」  敦史が大声で喚く。非常に見苦しい。 「明日? 大体お前にロクな用事がある訳ないだろ。いい加減にしろ」  俺はそう言って鼻で笑った。 「おう待てや!」 …… 「バーカバーカ!」  敦史があらん限りのボキャブラリーで罵倒する。まったく、それしか言えんのかこの男は。 「うっさいばーか!」  だが返す俺も大概ボキャ貧だった。 「よし、だったらポイントカードを渡せ。大体CD買うのになんでわざわざ男二人でいかなきゃな らんのだ。お使い頼まれた子供か」  俺は至極まっとうな意見を提案する。 「それはこっちの台詞だ! それにお前にカードを渡したらまた使い込むだろ。そんなの強盗に財 布を渡すようなものだ。というかいい加減自分のポイントカードぐらい作れよ!」  まったく随分な言いようだ。 「あれは事故だったんだ」  俺は厳しい顔で頷きながら言った。 「うそつけ!」 「いやだって店員がポイント使いますか? って訊くからさ。はい、って流れで言うだろ、普通」  俺は呆れたように言った。 「ほとんど故意じゃねえか! そこは断れよ!」 「ああもう面倒くさいな。じゃあもう俺が使った分のポイントはチャラでいいよな」 「それは使った側が言う台詞じゃないだろ! 絶対チャラになんかしないからな!」 「分かった分かった。たかだが2千円のポイントぐらいでぎゃあぎゃあと。まったく器の小さい男だ」  俺はやれやれとため息をついた。 「もとはお前が俺のポイントを使い込んだのが原因だろ! ああそうだ。あの分は別に現金で返して もらっても構わないんだぜ」  敦史は喚き続ける。いつにもましてうるさい。 「現金? 冗談はよせよ」  俺はせせら笑った。 敦史が得になるのは解せん。 「ふん、とにかく今日は忙しいんだ。じゃあの」  敦史は鞄を手に教室を出ていこうとする。 「けっ! お前にゃあ心底見損なったわ。親友に割く時間もない程の用事なのか」  俺は敦史の背中に向かって叫ぶ。 「おう、今度からちゃんとアポとれよ」  だが憎まれ口を叩きながら敦史はしれっと帰っていった。 「まったく薄情な奴だな……」  たぶんだがCD屋に行くとは言ってなかったような気はする。が、とりあえず自分のことは棚に上げて 敦史に文句を言っておくことにした。  まあいいや。  敦史のことだ。どうせ明日には忘れているだろう。  また明日素知らぬ顔でつき合わせればいい。でなければ無理やり連行だ。  やれやれ、寝起きに無駄な体力を使ってしまったようだ。  敦史とのくだらないやりとりで少し目が覚めたもののまだなんとなく眠い。  寝起きのようなぼんやりとした頭を振り、やたらと重く感じる鞄を担ぐ。  そのまま教室を出ようとした時、ふとまだ教室に残っている人物がいることに気がついた。  俺はその背中に声をかけた。 「なんだ楓。まだ帰ってなかったのか」  残っていたのは幼馴染の楓(かえで)だった。  視点はあさっての方向に向き、心ここにあらずといった感じでぼんやりとしている。 「あ、柊二。おはよう」  楓は完全に寝ぼけていた。  ようやく俺の声に気が付いたかと思うと、半分程閉じた目で眠そうに言った。 「まあその挨拶は間違いではないが……」  もしかしたら楓もロクに授業を聞いてなかったのかもしれない。  楓はどうも自分の席に座って特に何をするでもなく、うつらうつらと船を漕いでいたようだった。  手元の鞄も開けっ放しで帰り支度もろくに進んでいない。 「ふああぁぁ……。んん」  楓は眠たそうにもう一度欠伸をかみ殺した。 「まだ帰らないのか……って。あれ、まさかずっとここで寝ぼけてたのか?」 「うん、そうみたい……。あはは」  楓はそう言って照れ笑いをする。 「というか部活に行かなくていいのか」 「あたし部活やってないよ」 「ああそうだったけか」  ◇ 「おっとと……」  校門を出たところで楓が小さな段差に躓いてバランスを崩す。 「おいおい危ないな。大丈夫か?」  右に左にとふらふらと歩く姿はなんだか見ていて危なっかしく迂闊に目も離せない。 「……ん、大丈夫」  少し恥かしそうな、はにかんだような顔で楓が苦笑いをする。  その仕草もどことなくいつもの元気がないように見えた。  寝不足が原因なのだろうか。  なんにせよこんな調子じゃ一人で帰すのは心配だった。 「しょうがないな……今日は家までついてってやるよ」 「ありがとう」 「どうせ隣だろ」  下校時間を少し過ぎたばかり。  夕暮れの通学路は下校時間のピークも過ぎたせいか、生徒もまばらで閑散としていた。  帰りの道すがら楓と世間話をする。  こういうのもなんとなく懐かしい感じだ。  そういえば楓とこうやって一緒に帰ることがかなり久しぶりだったことに気が付いた。  楓とは近所で幼馴染ということもあってか、この高校まで全部同じ学校に通っているが  段々幼さゆえの気恥ずかしさもあって中学の頃には一緒に登下校しなくなっていた。  だが不思議ともうこの年になると特に何とも思わない。  二年になってからはクラスも同じだし、たまには一緒に帰ってもいいような気がする。 「しかしそんな大きなクマこさえて。ちゃんと寝てないのか?」  俺は隣をふらふらと歩く楓に言った。 「うん……。ちょっとね。最近よく眠れないんだ」  そう言う楓は今も瞼が半分下りているような具合だった。 「どっか体の調子が悪いのか」 「ううん、体は平気。全然病気とかじゃない」 「なんだじゃあ心配事か」 「うーん、そうだねえ……。そんなところかな」  なんとなく歯切れが悪い。これは気になる。 「おいおいなんだよ。気になるじゃないか。言えないのか?」 「うん、それはちょっと言えないなあ……。ごめんね」  楓はそう申し訳なさそうに言った。 「そうか。まあ楓が言いたくなったら言いなよ」  何事もあけすけな楓に隠し事とは珍しい。  まあ、深く突っ込んで聞かない方がいい時もあるだろう。  あえて俺は興味なさそうに言った。 「ん、ありがと。また折を見て話すね」  そんな俺の気遣いに気が付いたのか、楓は少し嬉しそうに言った。 「おう」

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