◆羊 夜 世界◆



第一夜  放課後の教室

			
 日本全国にどこにでもいる、何の変哲もないいたって普通の平凡な高校二年生。  藤間柊二(とうま・しゅうじ)は放課後の教室で寝ぼけていた。その姿は一見、ここでは ない何処かまったく別の世界。  例えば見渡す限りの広く青い空と何処までも続く草原の中、羊の群れが思い思いの場所で のんびりと草を食(は)んでいる牧歌的な風景を夢想しているように見えないこともなかっ たが、授業が終わったことにもクラスメイトの大半がすでに帰宅していることにも気が付か ずそのまま寝こけている駄目な学生の姿には十分見えた。 「おい、柊二」  ……うるさいな。誰だ俺の睡眠を邪魔する馬鹿者は。三度目の呼び声で俺はしぶしぶ目を 開ける。 「ようやくお目覚めか柊二くん、本日の授業はとっくには終わっていますぞ」  目を開けるとそこには呆れ顔をした中学時代からの腐れ縁の友人……いや。悪友の神楽木 敦史(かぐらぎ・あつし)がいた。 「ああ、勿論知ってた。ちょっと考え事をしていただけだ」  俺は口元を拭い、今更何を当たり前のことを言っているんだ、といった顔で言った。 「ほうそれにしては最後の授業の教科書が開きっぱなしのようですが……」  敦史はにやにやといやらしく笑いながら言った。 「明日の予習をしているに決まっているだろう。俺は君とは違って勤勉な学生だからな、放 課後といえども予習に余念がないんだよ」  俺は襟元を正しながらまるで優等生を気取った様な口調で言った。ああちなみに明日はこ の教科の授業はない。 「まあ柊二くんは家に帰ったら夜更かししていつものネットのゲームでもやってるからな。 あれだけ文句言ってたくせにまだ辞めてなかったのか。まったく呆れたやつだ」 「違う、最近はネットサーフィンだ。そんなにいつもゲームばっかりやってるわけないだろ」  心外だ。まるで家では一切勉強していないような言い方じゃないか。俺は口をとがらせて 反論した。 「どっちも同じ様なもんだろ! というか俺が何やってるかまで分かるか! しっかしなん だ、お前今日一日中寝てたんじゃないのか」 「いや多分五分は聞いた。五分」  俺は五本の指を立てしたり顔で言う。 「休み時間より短いな……それ」  まあその五分も寝ぼけていただけだったが。 「というか最近お前寝すぎじゃないのか? いいか。学生の本分は勉強だぞ? お前にはそ んな殊勝な気持ちが微塵も感じられんな。たぶんお前は全国の高校生の中でも屈指の駄目学 生だな」  まさか敦史に説教される日が来るとは……。俺は驚きと共に何故か少し感慨深い気持ちに なった。そっか敦史も成長したものだな。そう、これはまだまだひよっこだと思っていた弟 子が師匠に一太刀を浴びせられるようになった時のような気持ちだ。 「おいおいいきなり随分な言い様だな。全教科万年低空飛行のお前だけには言われたくはな いぞ。それに眠いのにはちゃんと理由はあるんだって」  俺はろくに開きもしなかった教科書やらノートを無造作に鞄に突っ込みながら言った。 「理由ねえ……。どうせ大したもんじゃないだろ。一応義理で聞いてやるけど理由ってのは なんだ?」  敦史はやれやれと肩をすくめて言った。 「いやちょっと前に良く眠れる音楽っていうのが聴けるサイトを発見してさ。その音楽のお かげかいくら寝ても寝たりないんだよ。いやほんと毎日快眠どころの騒ぎじゃないな」  俺は少し得意げに言った。きっと今まで夜更かしし過ぎて睡眠不足だった分もそれで取り 返せているのだろう。 「よく眠れる音楽サイト? なんじゃそら」  敦史が首を傾げる。 「まあサイトっていうか、最初は動画サイトのリンクから見つけたやつなんだけどな。よく 分からんがなんでも睡眠導入音楽ってものらしい」 「睡眠導入音楽ってなんか若干胡散臭いなあ、本当にそれ効果あるのか」 「俺も最初はそう思ったさ。ところが試しに寝る前に聴いたら効果はてき面。なぜか今はも う消えてるけどな」 「なんだよ。もう落とせないのか」  敦史は少しつまらなそうに言った。 「ああもう駄目だな。なぜか動画も削除されている。なんていうサイトだったっけかな、も う忘れたけど確かちょっと前までそこのサイトから音声ファイルを落とせたんだ」 「へえ、まるで興味ねえな。眠れなくなったことなんてねえし」 「けっ、つまらん奴だ。やせ我慢はよせよ」  頭すっからかんの敦史はどうせ毎日快眠で高いびきだろう。はは、こいつには関係ない話 だったか。 「はいはいつまらん奴で結構。それよりも俺たちもとっとと帰ろうぜ」  敦史は相変わらず呆れ顔のまま鞄を肩にかけた。まあ確かにもう落とせないものをあれこ れ言ってもしょうがない。それにファイル自体は確保している訳だし。 「ああそうだ。今日はCD見に行こうと思ってたんだ。付き合え。例のバンドの新譜が出た んだ」  俺はポンと手をたたく。 「それはよ言えや」  早速敦史が文句を言う。 「今朝言ったろ」 「そんなもん聞いてないわ! しかもああそうだって明らかに今思いついた感じだったろ! それに今日は大事な用事があるんだ。せめて明日にしろ」  敦史が大声で喚く。非常に見苦しい。 「明日? 大体お前にロクな用事がある訳ないだろ。いい加減にしろ」  俺はそう言って鼻で笑った。 「おう待てや!」
「バーカバーカ!」  敦史があらん限りのボキャブラリーで罵倒する。まったく、それしか言えんのかこの男は。 「うっさいばーか!」  だが返す俺も大概ボキャ貧だった。 「ふん、とにかく今日は忙しいんだ。じゃあの」  敦史は鞄を手に教室を出ていこうとする。 「はっ、お前にゃあ心底見損なったわ! 親友に割く時間もない程の用事なのか」  俺は去りゆく敦史の背中に向かって非難の言葉をぶつける。 「おう、今度からちゃんとアポとれよ」  だが憎まれ口を叩きながら敦史はしれっと帰っていった。 「まったく薄情な奴だな……」  たぶんだがCD屋に行くとは言ってなかったような気はする。が、とりあえず自分のこと は棚に上げて敦史に文句を言っておくことにした。まあいいや、敦史のことだ。どうせ明日 にはきれいさっぱり忘れているだろう。というか三歩歩けばもう忘れてそうだ。  また明日素知らぬ顔でつき合わせればいい。でなければ無理やり連行だ。そうだそうしよ う。  やれやれ、寝起きに無駄な体力を使ってしまったようだ。敦史とのくだらないやりとりで 少し目が覚めたもののまだなんとなく眠い。寝起きのようなぼんやりとした頭を振り、やた らと重く感じる鞄を担ぐ。  そのまま教室を出ようとした時、ふとまだ教室に残っている人物がいることに気がついた。 その人物は愛用の赤い髪留めをつけた長い栗色の髪を揺らしながら必死に睡魔と格闘してい るようだった。俺はその背中に声をかけた。 「なんだ楓。まだ帰ってなかったのか」  残っていたのは近所に住む幼馴染の白咲楓(しろさき・かえで)だった。しかし様子が少 し変だ。楓の視点はあさっての方向に向き、心ここにあらずといった感じでぼんやりとして いる。 「あ、柊二。おはよう」  楓は完全に寝ぼけているようだった。ようやく俺の声に気が付いたかと思うと、半分程閉 じた目で眠そうに言った。 「まあその挨拶は間違いではないかもしれないが……」  ここまで寝ぼけているとしたら楓もロクに授業を聞いてなかったのかもしれない。どうも 楓は授業が終わってからというずっとうつらうつらと船を漕いでいたようだった。手元の鞄 も開けっ放しで帰り支度もろくに進んでいない。 「ふああぁぁ……。んん」  楓は眠たそうにもう一度欠伸をかみ殺した。 「まだ帰らないのか……って。あれ、まさかずっとここで寝ぼけてたのか?」  まあ俺も人のことを言えたものではないけど。 「うん、そうみたい……。あはは」  楓はそう言って照れ笑いをする。
「おっとと……」  なんとなくそのままなし崩し的に楓と二人で教室を出たところで、寝ぼけた楓が小さな段 差に躓いてバランスを崩す。 「おいおい危ないな。大丈夫か?」  右に左にとふらふらと歩く姿はなんだか見ていて危なっかしく迂闊に目も離せない。 「……ん、大丈夫」  少し恥かしそうなはにかんだような顔で楓が苦笑いをする。その仕草もどことなくいつも の元気がないように見えた。寝不足が原因なのだろうか。なんにせよこんな調子じゃ一人で 帰すのは心配だった。 「しょうがないな……今日ぐらいは家までついてってやるよ」  どうせ近いし、と俺は言い訳がましく後に付け加えた。 「ありがとう、柊二」 「水くさいな、幼馴染だろ」
 ◇

 夕暮れの通学路は下校時間のピークも過ぎたせいか、生徒の数もまばらで閑散としていた。 「なんかこうして一緒に帰るのも懐かしいもんだな」  俺は隣でふらふらと歩く楓に言った。そういえば楓とこうやって一緒に帰ること自体がか なり久しぶりだったことに気が付く。こうして帰りの道すがら楓と世間話をするというのも 懐かしい。 「そうだねえ、家近いのにね。なんでだろ」 「俺は部活やってないからな。あれそういえば楓は部活やってたんだっけ?」 「ううん、私もやってないよ」 「そういやうちのクラスの奴はほとんどやってないよな。かったるもんな」 「そうだねえ、うちの学校自体スポーツもあんまり盛んじゃないしね」  楓とは近所で幼馴染ということもあってか、この高校まで全部同じ学校に通っているが段 々幼さゆえの気恥ずかしさもあって中学の頃には一緒に登下校しなくなっていたような気が 知る。  だがもうこの年ぐらいになるとこうして二人並んで帰っても特に何とも思わないのは不思 議だった。二年になってからはクラスも同じだし、せっかくだからたまには一緒に帰っても いいような気がする。 「しかしそんな大きなクマこさえて。ちゃんと寝てないのか?」 「うん……。ちょっとね。最近よく眠れないんだ」  そう言う楓は今も瞼が半分下りているような具合だった。 「どっか体の調子が悪いのか」 「ううん、体は平気。全然病気とかじゃない」  楓はそう言って首を振る。 「なんだじゃあ心配事か」  つい心配になって突っ込んで訊いてみる。 「うーん、そうだねえ……。そんなところかな」  なんとなく歯切れが悪い。これは余計に気になる。 「おいおいなんだよ。気になるじゃないか。言えないのか?」 「うん、それはちょっと言えないなあ……。ごめんね」  楓はそう申し訳なさそうに言った。 「そうか。まあ楓が言いたくなったら言いなよ」  何事もあけすけな楓に隠し事とは珍しい。  まあ、深く突っ込んで聞かない方がいい時もあるだろう。あえて俺は興味なさそうに言 った。 「ん、ありがと。また折を見て話すね」  そんな俺の気遣いに気が付いたのか、楓は少し嬉しそうに言った。

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